葉と光

お久しぶりです。

ずいぶんと間が空いてしまいました。

最近はもっぱら卒業論文に四苦八苦しているです。

 

前回『グレート・ギャッツビー』について熱く語ったはいいものの、捧げた体力と文字数を卒業論文に向けることはできなかったのかと少々反省し粛々と日々を送っていたため、更新できずにいました。

(↓ということでこちらも是非目を通してみて下さいネ)

華麗とピザ - 彼女にこの本借りました。

 

それでも息抜きも兼ねてということで、現在は布団の上でごろりんごろりんと寝返りを打ちつつ文章を考えています。

 

近況ですが、彼女とは相変わらずです。中華料理のフルコースが振る舞えるくらい高温のアツアツです。

本もいろいろと借りています。ここに書きたい作品が溜まるばかりで、発散が間に合っておりません!

ゆっくり一つずつ取り上げていくつもりなので楽しみにしていて下さると幸いです。

映画も1日1〜2本ペースを維持してはいますが、僕は卒業論文が映画関係なので、なんでも好きなものをというわけにはいかず…。せっせとメモを取りながら観る映画はやはりどこか窮屈で、最近は生きた心地がしてません。

そんな状態のせいなのか、近頃はよく死ぬ前に観るならどの映画がいいかなと考えることが多いです。死ぬ間際にそんな時間的、体力的余裕があるかどうかは置いておいて、どれにしましょう。ストレートに人生の希望を高らかに謳った作品か、陰日向のひそやかな幸せに目を向けてくれる作品か。それともあえて切なさで胸が締め付けられるような悲哀に富んだ作品にするか…。

チャップリン『ライムライト』とかありだなぁ…ピーター・ウィアー『いまを生きる』はどうだろう…あ!小津東京物語とかピッタリじゃない!?

などといろいろ考えたはいいものの、いずれにせよどの映画を選んでもその中に観るのは結局自分の人生なんだろうなと気がつきました。自分が死ぬと分かっていたらきっとただあんなこともあったなぁとかその気持ち味わったことあるなぁとか自分を重ねるばかりで内容は何も頭に入らないと思います。

なのでいっそ彼女(もちろんその時は伴侶になっていることとして)に選んでもらうことにします。散々迷った挙句、おバカ映画選ぶんだろうなぁ…。

 (クリスマスに各自ひとつ観る映画を選ぶということをした際、彼女は『アタック・オブ・ザ・キラー・ドーナツ』を借りてきたという前科があります)

 

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さて、ところで。みなさんはどんな風に死にたいかということについて考えたことがありますか?

苦しまずに死にたいとかそういうことではなく。いつ頃、どこで、誰に見守られて、なにを思い出して、どんな言葉を残して死ぬかというようなことです。

僕はまだ若いこともあり、小さい頃の「死ぬことがやたらと怖い時期」は経験したものの、未だ積極的に自分の死について考える機会を持っていません。それは当然のことかもしれませんが、確実に死は生の終着点にあるわけですから、死を考えずにいるというのは、どう生きていきたいか、どう人生を全うしたいかということを僕はまだ半分しか考えられていないとも言えるのかなと思います。

そもそも日頃目にし耳にする、はらわたの煮え繰り返るような事件事故のことを考えると、人生を全うできたという感覚は死ぬことの十分条件であり必要条件ではないというのが残念ながら事実です。

つまり全うすることなく死んでしまう生命も世の中には星の数ほどあり、寿命を全うして死ねたならそれだけで幸福だという主張も当然ありえますし、正しいと言ってもいいと思います。

では、全うするとは一体なんなのでしょうか。

今回彼女に借りた小説ではその辺りが勘所になってきます。

 

オー・ヘンリー『最後のひと葉』です。

 

最後のひと葉―O・ヘンリー傑作選II―(新潮文庫)

最後のひと葉―O・ヘンリー傑作選II―(新潮文庫)

 

今回借りたのはアメリカの作家ヘンリーのこの短編集です。作品は全部で14作品。ここではすべてを紹介することはしませんが、おそらく最も有名な表題作は教科書で読んだことがある方も多いと思います。

僕も読んだことがあるはずでした。実際結末も知っていました。しかしそれでも最後に鳥肌が立ったので、いかにこの短編小説が読み物としての力を備えているかがわかると思います。

 

最後にと書きましたが、他の短編にも共通しているのがこの痛快な読後感、結末の鮮やかさです。よく「どんでん返し」という言い回しがありますが、個人的にこのヘンリーの場合はそれに近いものの少し違うような気がします。

というのも、僕ら読者をわざとミスリードし、最後に裏切ってみせるような物語構造をもたせているわけではないからです。

彼の作品のほとんどは、ミスリードされているのは作中の特定の誰かであり、客観的視点を持つ僕ら読者に対しては騙すでもなく、かといって真実を教えるでもなく一定の距離を置くことにより(放置しておくことにより)曖昧さを生み、最後に少し読者の視線の角度を変えてあげることで意外性を生んでいます。登場人物と読者に対し常に冷静さを持った態度と機転の利いた語り口がヘンリーの特徴だと言えます。

 

以上を踏まえ、この『最後のひと葉』の話に移ります。

この作品も例に漏れず、登場人物のひとりとわれわれ読者がラストに真実を知るという仕組みになっています。しかし他の作品と違ってこの短編が名作になっているポイントは、結末の鮮やかさだけにとどまらず、同時に人間への深い情愛を感じさせるところにあると思います。

驚きと切なさが相乗効果として作用し、大きな感動へと結びつきます。

 

登場人物は主に3人です。そして3人ともが同じアパート(コロニー)で生活する画家です。この舞台として設定されているグリニッジヴィレッジという場所は、芸術家たちがわんさか集まって暮らしているところらしいです。ここへつながる周辺の道が複雑に入り組んでいるため、そろってお金のない芸術家たちはもろもろ取り立てに来る者の目をごまかしやすいというのがその理由です。

この環境設定から、登場人物は皆ある程度社会から外れている者たちであることがわかると思います。

このアパートの三階にジョンジースーの女性画家2人組がアトリエ兼自宅として部屋を構えています。

明記はされていませんが、この2人はおそらく恋人同士だと思われます。

「何でもいいから心残りになってくれるようなものはないのかな」

「ああ、そう言えば-いつかはナポリ湾の絵を描きたいと」

「絵を?-つまらん。もうちょっと気になってならないような-たとえば、男とか」

「男?」スーは口琴を加えて弾いたような声を出した。「男なんてものは-あ、いえ、先生、そういうことはありません」

このスーと医者とのやりとりだけで、売れない芸術家であり加えて同性愛者でもある2人が二重の意味で世間一般の理解を獲得しづらい立場であることがあらかじめ匂わされます。

医者と書いたついでですが、この物語はジョンジーが肺炎(当時は難病)にかかって命の危険にあるという前提からはじまります。ジョンジーはもう自分の死を確信し、諦めている様子です。

そしてこの世間一般の代表たる医者は為すすべなく「助かる見込みは十に一つ」で「本人が生きようとすればそんな見込みもあるという話だ」と言うことしかできない無力な存在です。なぜなら世間一般の代表=コロニー外の人物の代表ですから、この外れ者である芸術家たちを心から理解してあげられないこの医者がジョンジーを生きたいという気持ちに変えてあげられるわけがありません。

そこで登場するもう1人のキャラクターが同じアパートの下の階で暮らす売れない老画家のベアマンです。

この男はスーとジョンジー以上の世間の外れ者で、口を開けば「いつか傑作を描く」と豪語しているもののろくに筆もとらず酒ばかり飲んでいるような人物です。しかしこのダメ親父ベアマンこそ主人公(ヒーロー)なのです。

 

先ほども書きましたがジョンジーは肺炎を患っているため、もう一日中ベッドの上で生活するような状態にあります。彼女はそのベッドから窓の外の景色を見つめます。見えるのは単なるレンガの壁ですが、そこには蔦(つた)が張り付き、蔦には何枚もの葉っぱが付いています。

ジョンジーはその葉っぱの枚数を数え続けていて、今も絶えずどんどん落ちて減っていってると言います。

「最後の一枚が落ちたら、あたしも終わりね。」

「ほら、また一枚。スープも要らない。あと四枚だけね。暗くなる前に最後の一枚まで行ってくれないかしら。それを見て、あたしも行くわ」

「最後の一枚が落ちるのを見届けたい。もう待ってるのもいやだわ。考えるのもいや。何もかもうっちゃらかして、くたびれた葉っぱみたいに、ひらひら落ちて行きたい」

ジョンジーはいつの間にか落ちていく葉っぱに自分の命を重ね合わせ、カウントダウンするようになっていたのです。

もちろん葉が全て落ちることとジョンジーが死んでしまうことはなんの関係もありません。スーもそう言いますが、一方でどこか不安な気持ちにもなります。なぜならここで問題なのはそう思い込んでしまっているジョンジーの精神状態だからです。

スーはそんな考えからジョンジーを引き離そうと、自分の絵の話をしたり寝かせようとしたりします。ここで先ほどの無力な医者とは少し変わり、精一杯ジョンジーに「生きられないと考えることを忘れさせ」ようとするスーのあり方が見て取れます。それでもまだ「生きるんだと思わせる」まではできません。

 

一方、スーからその話を聞いたベアマンは憤ります。

「何だあ?葉っぱが落っこちるから死ぬ?そんな阿呆たれが世の中にいてたまるか」

ここで読者は、別にそんなに怒んなくてもいいじゃん…と思うわけです。それもヘンリーの巧さです。

 

そうこうしているうちに、よりにもよって雪混じりの雨が降ってきます。ジョンジーは眠り、スーも窓にシェードをかけて景色を覆い隠して眠りにつきます。

スーはあくまで、「見せないようにすること」に固執し、労力を使うにとどまるわけです。

 

そして翌朝になり、ジョンジーに言われるがままスーがしぶしぶシェードを上げると、まだ最後の一枚だけがしぶとく残っているのです。意外だと驚くジョンジー。その後、何時間経ってもその一枚は茎にしがみつき落ちません。北風が吹いても、雨が窓を叩いても変わらずそこにあります。

ついにジョンジーが根負けし、ようやく生きることに目を向けます。

「あたし、悪い子だったのね」ジョンジーは言った。「心がねじ曲がってた。そうと思い知らせるために、あの葉っぱが残ることになったんだわ。死にたいなんて考えるのは罪なことね。あの、スープ、少しもらえるかしら」

食べることは生きること。スープを飲もうとするところに大きな心境の変化を感じますね。さらにジョンジーは「いつかはナポリ湾の絵を描きたい」と未来の話をするようにまでなります。

 

こうして、 この後病状の峠を越えて、ジョンジーは心身ともに回復します。しかし、ほぼ同時に、老画家のベアマンが肺炎で亡くなったことを知ります。

というのも実は、あのいつまで経っても落ちなかった最後の葉っぱは、あの日ベアマンが夜な夜な冷たい雨風の中、一人ではしごに登り、レンガの壁に描いた本物そっくりの絵だったのでした。その無理がたたり、彼は肺炎を患ったのです。

ジョンジーを救ったのはベアマンの描き上げた最初で最後の傑作だったというセリフでこの作品は締めくくられます。

 

 

…ニクいですね、ベアマン。

どうでしょう。ベアマンという男は人生を全うしたでしょうか。

そもそも動機は何だったのか。

絶望している若い女の子たちを救いたいという親切心?

最後に傑作を見せてやろうという絵描きとしての意地?

あるいはその両方?

一つ間違いなく言えるのは、彼は少なくとも画家としての人生は全うしたということだと思います。というのも、ベアマンは無意識のうちにスーが捨ててしまっていた「見せる」という選択肢をとることができたわけです。画家というのは作品を誰かに見てもらってなんぼです。「傑作」という言葉にしても誰に、いつ、どのような形で見てもらえたかという状況も含めて完成する概念とも言えるわけですし。

口ではぶっきらぼうなことを言いつつも、自分の絵を見せることでジョンジーの気持ちを変えてやろうとしたベアマンの心意気の勝ちなのです。完璧な勝ち逃げです。この点で、恋人であるスーは画家としても救い手としてもベアマンに引けをとってしまったわけで、未熟さ、若さが出たかなと思います。(献身という意味ではジョンジーにとってなくてはならない存在でしたし、未来を生き抜くパートナーでもあるわけですが)

もしかするとベアマンは最後の最後になって初めて、描くために描いたのではなく見せるために描いたのかもしれませんね。

単なる結末の意外性にとどまらず、ジョンジーとスー、そしてベアマンへの作者のニンマリと笑う顔が透けて見えるような温かな視点が感じられる名作なのではないでしょうか。なにより数ページでこれをやったことで非凡さと味わいが引き立っています。

 

ちなみにこの本の他の短編作品だと、僕は『金銭の神、恋の天使』『ユーモリストの告白』が特に好きでした。比べて読むのも楽しいですよ。

 

 

ところで。実は僕の彼女は絵画の勉強も少ししていまして、それもあって普段から絵画の力を信じている彼女がこの作品を好む理由もなんとなくわかる気がします。

僕は美術には明るくないのでいつも興味深く話を聞いているのですが、最近彼女にオススメされて気に入った絵があります。

ルネ・マグリット『光の帝国』です。

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昼と夜が同時に存在しているこの絵の、一枚でいろんな印象を与えてくれるところがすごく好きです。静謐さ、不穏さ、幻想、現実、冷たさ、温もり。なんといってもキレイですよね。マグリット展、次があれば連れて行ってもらいます!

 

そういえばこれも彼女から教えてもらったのですが、この作品の世界観を引用した映画があるのです。↓

 

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そうです。エクソシストです。

彼女も大好きなこのホラー映画。

ベッドで身体を大きく波打つそこそこ有名なくだりがあるのですが、そのモノマネは彼女の持ちネタです。テンションが上がると布団の上でつい取り憑かれてしまうようです。エキセントリックでしょう?僕は毎回間違いなく爆笑します。

 

 

では今回はこの辺で失礼します。

また次回お会いしましょう…(♫エクソシストのテーマ曲とともに♫)