華麗とピザ

こんばんは。3回目のです。

紹介が遅れましたが、僕は現在大学4年生です。4年生の9月ということで、しかめ面をしながらいそいそと卒業論文にいそしんだりいそしまなかったりしています。今はまだいそぐような時期ではないので、さほどいそがしくはありませんが。

ちょっといそいそ言い過ぎましたね。

さて、いそと言えば磯山さやかさんですが、磯山さんは茨城県出身。

そうです。僕の彼女茨城県出身なのです。当の彼女はそのことに少々コンプレックスがあるようですが。

自分はパリジェンヌであると周りにうそぶいていることから分かるように、華やかだったり、煌びやかだったり、洗練された世界に憧れが強いようなのです。

 

そんな悩みに対していつも同情を口にしつつも、実は僕は彼女が茨城出身で良かったなとも思っています。

彼女には人一倍"伸びやかな"ところがあります。それは単なる明るさとも、大らかさとも少し違います。素直さと頑固さと温かさがちょうど同じ分量ずつ混ざったようなものです。

おや?頑固は伸びやかと矛盾するんじゃないかと思われるかもしれませんが、矛盾どころかむしろ必要不可欠だと僕は思います。素直さと温かさと同居しているというのがポイントです。

 

たとえば「器が大きい」という表現があります。一般的には「物事を受け入れる幅が広いこと」といった意味だと言えます。彼女の持つ伸びやかさはこれに限りなく近いです。

ほら!頑固とは正反対じゃないか!と言われそうですが、確かにお門違いの頑固である場合はその通りです。しかし、本来は正反対ではなく裏返しではないかと思うのです。

 

想像してみてください。

言われたこと全てに問答無用で同意するイエスマンを。

他人の主張に対して一切自分の意見をぶつけない似非平和主義者を。

相手と場所と空気でころころと自分を変えてしまう八方美人なあの人を。

雨が降ろうが槍が降ろうが受け入れてしまうのは器ではなくもはや水です。水に理性はありません。頼りにならない場合には「器が大きい」という表現は当てはまりません。

 

僕の言っている頑固というのはその器の固さではなく強度のことです。彼女の持つ器は鋼じゃなくてゴム製なのかもしれません。

頑固というのはつまり「自分が納得するまでは姿勢を変えない」ことです。それはどこかで信頼感にも繋がっていきますよね。

自分の考えに頑固でなくても、より"好ましい方に"頑固であればいいのです。

そして、納得し共感することさえ上手くいけばこれ以上に心強い味方もいません。

現に彼女も、他の意見が好ましいと判断するやいなや持ち前の素直さでその意見を大切に扱うことができます。一方で正しい答えがないような問題には自分なりにこれだ!と思える回答を用意しておくこともできます。

彼女はきちんとした判断基準のある頑固さを持っていて、かつそれをミリ単位で伸縮させられるゆとりも持っているのです。

 

要するに、彼女は自分の好きな考えや大事な人を一番良いように保つことに対して頑固なわけです。

まぁ確たる自分を持っていなければどのみち他人に対して真摯でいられませんしね。ちょっとした意地の悪さも負けん気も虚栄心もあるのは当たり前。それらをうまく出し引きしてみせてこその人格者だと思います。

 

いろいろと言いましたが、個人の性質や考え方に、どれほど自らのバックグラウンドが影響しているかは正直わかりません。それでも彼女の伸びやかさは茨城で育まれました。遠い世界への憧れが彼女の人柄を豊かにしたもののひとつであるような気がするのです。

だって、素直さも頑固さも温かさも、劣等感のない人間には備わらないでしょう。

 

 

さて、前置きが長くなりましたが無関係ではありません。今回彼女が貸してくれたのは、そんな頑固さ遠い憧れがキーワードにもなる一冊です。

 

 

『グレート・ギャッツビー』フィッツジェラルド

 

 

 

今回は村上春樹訳の方ではなく光文社の新訳古典文庫でした。結論から言います。ド級の名作です。誰かがこれを世界一だと宣言しても納得するレベルです。

これまで読んでなかったことを後悔するとともに、若者が終わりつつある今に間に合って良かったと思いました。

 

初回、2回目とフランス小説でしたが、3回目にして初のアメリカ小説です。

彼女の分析によると、僕はアメリカ文学に強く惹きつけられる傾向があるみたいです。(自覚なし。アメリカ映画好きとも関係あるかも)

 

まず。この作品を傑作にしているほとんどすべての要因はタイトルにもあるように、ジェイ・ギャッツビーという男のキャラクター設計にあると言っていいと思います。彼にどれほど惹きつけられるかによって、作品そのものへの没入感が決まります。

桁違いの金持ちであり、パーティー狂であり、ジェントルマンであり、ミステリアスであり、無垢であり、ロマンチストであり、愚か者。多くの側面が入り乱れて複雑ですが、読み終えた時、たったひとつの真っ直ぐな生き様だけがかすかな残り香となり漂うのを感じるだろうと思います。

 

テクニックの面で言えば、ギャッツビーをこれほど奥行きのある人物に仕立てているのがニック・キャラウェイの存在です。彼は語り手として読者と同じ客観的視点を持ちながらギャッツビーと関わっていきますが、時にその役割を放棄し自ら彼の運命の渦に身を投じ、翻弄されてゆく役割も担っています。

読者とギャッツビーの間に物静かで理性的で最も優しいニックを一枚かませることによって、ギャッツビーの人格や心の動き、物語の紆余曲折をより効果的に膨らませることに成功しています。

 

もう一人ある意味で物語のすべてを担わされた人物がデイジー・ブキャナンという女性です。ギャッツビーをこれほどまでに豊かなキャラクターにし、そのすべてを与えた張本人である一方で、彼のすべてを奪ってしまった張本人でもあります。

彼女に与えた性質と役割も見事でした。ここを間違えると作品全体が一気にぼやけかねませんでした。

ギャッツビーとニックが多面的で複雑とも言える人物として描かれているのに対して、このデイジーという女性は物語のすべてを握らされているキーパーソンにもかかわらず、ただ美しいだけのどこか軽薄な女性として存在しているのみなのです。

この物語の構造において、デイジーの担う役割に、複雑な人物設計などいらないということを作者フィッツジェラルドは分かっていたに違いありません。

ただ美しすぎた。そして少しだけ浅はかだった。皮肉にも、彼女はそれだけでギャッツビーの運命そのものとなったのです。

もちろん、これは物語の構造上の話であって、小説内でデイジーがただずっと突っ立ってたかというとそうではありません。デイジーは夫のトムが浮気していることにも感づいていますし、そのトムとの間に娘もいるので境遇的にもタイミング的にもギャッツビーとの出会い(再会)は器の大きくない彼女にとって抱えるには大きすぎるドラマだったのだと思います。

 

なによりも、このギャッツビーとデイジーの関係は他でもない作者スコット・フィッツジェラルドとその夫人をどうやら原型にしているようなので、この荒唐無稽とも言える直線的な愛情にどこか説得力と重みが感じられるのも納得です。

 

しかしまず構成の話だけしてしまえば、この他のキャラクターたちもまたややこしい事情に満ちた人生も、含みを持った人格も備えることなく、単純に物語上の役割を果たすだけの演者だと言えます。あとは物語がいつどのように動き出すかが焦点となりますが、狂っていく歯車に対して実はこの演者全員がある程度責任ときっかけを持っています。この構成はうまいなぁと思いました。「誰かのせい」にしてしまうとギャッツビーの生き様が途端に運命的なものではなくなってしまいます。

たこれらの要素だけで小説が名作になったのは、時代背景含め魅力的な世界観と文体の放つみずみずしさはもちろんですが、物語の中心にいるギャッツビーという男の求心力にあるのだと何度も言っておきます。

 

 

デイジーの親友、ジョーダン・ベイカー

デイジーの夫、トム・ブキャナン

そのトムの浮気相手、マートル・ウィルソン

そのマートルの夫、ジョージ・ウィルソン

唯一このジョージは最も単純で悲劇的な役割を持っています。自身の人生の顛末においても、物語への関わり方としてもです。

また同時に、小説全体の裏側に潜む象徴的な意味合いにおいてはギャッツビーらと相反するもの(貧困)としても上手く機能しています。

 

そして象徴の話として避けて通れないのが「灰の谷」です。ギャッツビーらの住むロングアイランドから遊び場であるマンハッタンへ向かう途中にある、廃棄物で溢れる汚れた場所です。この地理上の設定もウィットに富んでいて、前提としてアメリカという国を扱う作品の場合、南北、白黒、貧富など対立のテーマは必ずその根底に透けて見えます。この小説が書かれたのが(また作中の時代も)アメリカが経済的に目覚ましい発展を遂げていた1920年代だということを踏まえると一層多くの意味をもってきますね。

『グレート・ギャッツビー』もその例に漏れず、必然として物語はこの灰の谷で大きく動くことになるのです。ジョージとマートルの引き金夫婦もここで暮らしています。

さらによりにもよって、この場所に、すべてを見下ろす神の目なる看板があるというのも露骨に示唆的です。

(↓こちらは74年版の映画から)

 

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この小説の場合、一度読んだ限りではそれほど宗教的な態度のもつ意味は大きく扱われていないように思いますが、神の視点というのは、あえてぶっきらぼうに言うととても"便利な"小道具になりえます。

映画やドラマなどで俯瞰ショット(真上から見下ろすような映像) が選択されている場合、まず8割は神などの超越的なものの視線の代弁として演出されていると言い切れます。

おそらくこの小説の場合は「運命」を代弁するものだろうと思いましたが、ギャッツビーとデイジーを二度引き裂いた当時のアメリカ「社会」の象徴ともとれます。これについてはさらなる考察のしがいがありそうです。

 

僕の好きな場面は、ニックの計らいによりギャッツビーとデイジーが再開するところと、その後ギャッツビーのシャツの山でデイジーが涙するところです。

いよいよデイジーに会える時。完璧超人に見えたギャッツビーがかなりかっこ悪く、情けなく、一人の普通の男の子になってしまいます。それがかえってデイジーへの大きすぎる愛を感じさせます。

 ギャッツビーは、どたばたとキッチンへついてきて、ドアを閉めると、声をひそめて「ああ、何たることだ」と情けない言い方をした。

「どうしたんです?」

「まずいことをした」大きく首を振っている。「まずい、まずい」

「だいぶ上がってたみたいですね。それだけのことでしょう」この次に私が言ったことは、結果としてよかったのだろう。「デイジーもそのようでした」

「デイジーも?」まさかという口ぶりだ。

 そりゃ浮き足立ちますよね。だってこの瞬間のためだけに彼は巨万の富を築き、家を建て、毎晩大枚叩いてパーティーを開催してきたわけですから。

逆に言えばここが彼のただひとつの脆さであり、この脆さゆえに招いたのがあの結末だったと。

 

 ギャッツビーは無造作にシャツを手にすると、次々に放り出していった。つややかなリネン、厚手のシルク、みごとなフランネルが、はらはらと広がって色あざやかにテーブル上を埋めつくすー

ーすると、引きつった声を洩らしたデイジーが、いきなりシャツの山に突っ伏して猛烈に泣いた。

「だってシャツがこんなにきれいなんだもの」

  ここで山のように積み重なった高級なシャツはどれも、デイジーが恋をしていた頃のギャッツビーには到底着られなかったものです。ギャッツビーがデイジーに会うために築き上げてきた富と地位と名誉の山であり、二人の間に横たわる長すぎた年月でもあります。その無邪気なまでのきれいさは、どこか虚しさを感じさせるのです。

 

以上述べてきたように『グレート・ギャッツビー』はアメリカを代表する傑作小説なので、映画化もすでに5度されています。原題はいずれも“The Great Gatsby”です。

或る男の一生(1926年)
暗黒街の巨頭(1949年)
華麗なるギャツビー(1974年)
華麗なるギャツビー(2000年)
華麗なるギャツビー(2013年)

特筆すべきは74年版と13年版です。

 

74年版でギャッツビーを演じたのは私も大好きなロバート・レッドフォードです。明日に向って撃て!『スティング』で有名ですね。

デイジー役もまた名女優ミア・ファロー。こちらはローズマリーの赤ちゃんウディ・アレンの作品群でご存知の方も多いと思います。(そのウディとのいざこざについては触れません…)

脚本を書いたのが地獄の黙示録コッポラなのはあまり知られてないようです。

 

 

僕はやっぱりこの13年版がどうしても好きです。まずギャッツビーとディカプリオの相性の良さが100点満点。監督にバズ・ラーマンを使ったのもナイス采配です。ムーラン・ルージュや同じくレオ様(彼女はおそらく世界で唯一ディカ様と呼んでいる)主演の『ロミオ&ジュリエット』などにも共通した、豪華絢爛でドラマ性に富んだロマン主義的世界観が上手く活かされていました。

さらにさらに。デイジー役に抜擢されたのが僕の好きな顔面を持つキャリー・マリガンであったこともプラス。さきほど述べたデイジーのもつ軽薄さという点ではミア・ファローよりも"らしく"表現できていたと思います。

ちなみに、劇中ではメイクで右頬にホクロを付けていました。↓

 

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実は僕の彼女も似た位置にホクロがありまして、そのホクロのある白いほっぺが僕が一番好きなパーツなのです!ごちそうさまです!

 

かなり長くなってしまいました。

簡潔に。この本と引き合わせてくれた彼女にありったけの感謝を献上します。

 

そして最後に。この小説のカギを握る感情の1つでもあった嫉妬にまつわるエピソードがひとつ。

僕と彼女が彼女の住む部屋に宅配ピザを頼んだ時の話です。届くまでの時間、僕は用事を済ませに郵便局へ。彼女はシャワーを浴びることに。

予定より時間がかかってしまい慌てて帰ってくると、ちょうど玄関から動揺した様子でピザの配達員の方が出てきました。

ドアを開けると、裸にタオル一枚の彼女がピザを持っていました。僕が少し戻るのが遅れたために、彼女がシャワー途中で出て受け取ってくれていたのです。

僕は思い出しました。さっきの配達員の男性の鼻の下が伸びていたことを。

キィィィィィィィィィ!!

 

 愛情の火加減って調節が難しいですよね。ギャッツビーもそう思わない?

 

以上、ピザを焼いてもらったらヤキモチを焼くことになった話でした。

 

 

 

 ※今回は光文社版に合わせて、名前の表記をギャツビーではなくギャッツビーで統一しました。