葉と光

お久しぶりです。

ずいぶんと間が空いてしまいました。

最近はもっぱら卒業論文に四苦八苦しているです。

 

前回『グレート・ギャッツビー』について熱く語ったはいいものの、捧げた体力と文字数を卒業論文に向けることはできなかったのかと少々反省し粛々と日々を送っていたため、更新できずにいました。

(↓ということでこちらも是非目を通してみて下さいネ)

華麗とピザ - 彼女にこの本借りました。

 

それでも息抜きも兼ねてということで、現在は布団の上でごろりんごろりんと寝返りを打ちつつ文章を考えています。

 

近況ですが、彼女とは相変わらずです。中華料理のフルコースが振る舞えるくらい高温のアツアツです。

本もいろいろと借りています。ここに書きたい作品が溜まるばかりで、発散が間に合っておりません!

ゆっくり一つずつ取り上げていくつもりなので楽しみにしていて下さると幸いです。

映画も1日1〜2本ペースを維持してはいますが、僕は卒業論文が映画関係なので、なんでも好きなものをというわけにはいかず…。せっせとメモを取りながら観る映画はやはりどこか窮屈で、最近は生きた心地がしてません。

そんな状態のせいなのか、近頃はよく死ぬ前に観るならどの映画がいいかなと考えることが多いです。死ぬ間際にそんな時間的、体力的余裕があるかどうかは置いておいて、どれにしましょう。ストレートに人生の希望を高らかに謳った作品か、陰日向のひそやかな幸せに目を向けてくれる作品か。それともあえて切なさで胸が締め付けられるような悲哀に富んだ作品にするか…。

チャップリン『ライムライト』とかありだなぁ…ピーター・ウィアー『いまを生きる』はどうだろう…あ!小津東京物語とかピッタリじゃない!?

などといろいろ考えたはいいものの、いずれにせよどの映画を選んでもその中に観るのは結局自分の人生なんだろうなと気がつきました。自分が死ぬと分かっていたらきっとただあんなこともあったなぁとかその気持ち味わったことあるなぁとか自分を重ねるばかりで内容は何も頭に入らないと思います。

なのでいっそ彼女(もちろんその時は伴侶になっていることとして)に選んでもらうことにします。散々迷った挙句、おバカ映画選ぶんだろうなぁ…。

 (クリスマスに各自ひとつ観る映画を選ぶということをした際、彼女は『アタック・オブ・ザ・キラー・ドーナツ』を借りてきたという前科があります)

 

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さて、ところで。みなさんはどんな風に死にたいかということについて考えたことがありますか?

苦しまずに死にたいとかそういうことではなく。いつ頃、どこで、誰に見守られて、なにを思い出して、どんな言葉を残して死ぬかというようなことです。

僕はまだ若いこともあり、小さい頃の「死ぬことがやたらと怖い時期」は経験したものの、未だ積極的に自分の死について考える機会を持っていません。それは当然のことかもしれませんが、確実に死は生の終着点にあるわけですから、死を考えずにいるというのは、どう生きていきたいか、どう人生を全うしたいかということを僕はまだ半分しか考えられていないとも言えるのかなと思います。

そもそも日頃目にし耳にする、はらわたの煮え繰り返るような事件事故のことを考えると、人生を全うできたという感覚は死ぬことの十分条件であり必要条件ではないというのが残念ながら事実です。

つまり全うすることなく死んでしまう生命も世の中には星の数ほどあり、寿命を全うして死ねたならそれだけで幸福だという主張も当然ありえますし、正しいと言ってもいいと思います。

では、全うするとは一体なんなのでしょうか。

今回彼女に借りた小説ではその辺りが勘所になってきます。

 

オー・ヘンリー『最後のひと葉』です。

 

最後のひと葉―O・ヘンリー傑作選II―(新潮文庫)

最後のひと葉―O・ヘンリー傑作選II―(新潮文庫)

 

今回借りたのはアメリカの作家ヘンリーのこの短編集です。作品は全部で14作品。ここではすべてを紹介することはしませんが、おそらく最も有名な表題作は教科書で読んだことがある方も多いと思います。

僕も読んだことがあるはずでした。実際結末も知っていました。しかしそれでも最後に鳥肌が立ったので、いかにこの短編小説が読み物としての力を備えているかがわかると思います。

 

最後にと書きましたが、他の短編にも共通しているのがこの痛快な読後感、結末の鮮やかさです。よく「どんでん返し」という言い回しがありますが、個人的にこのヘンリーの場合はそれに近いものの少し違うような気がします。

というのも、僕ら読者をわざとミスリードし、最後に裏切ってみせるような物語構造をもたせているわけではないからです。

彼の作品のほとんどは、ミスリードされているのは作中の特定の誰かであり、客観的視点を持つ僕ら読者に対しては騙すでもなく、かといって真実を教えるでもなく一定の距離を置くことにより(放置しておくことにより)曖昧さを生み、最後に少し読者の視線の角度を変えてあげることで意外性を生んでいます。登場人物と読者に対し常に冷静さを持った態度と機転の利いた語り口がヘンリーの特徴だと言えます。

 

以上を踏まえ、この『最後のひと葉』の話に移ります。

この作品も例に漏れず、登場人物のひとりとわれわれ読者がラストに真実を知るという仕組みになっています。しかし他の作品と違ってこの短編が名作になっているポイントは、結末の鮮やかさだけにとどまらず、同時に人間への深い情愛を感じさせるところにあると思います。

驚きと切なさが相乗効果として作用し、大きな感動へと結びつきます。

 

登場人物は主に3人です。そして3人ともが同じアパート(コロニー)で生活する画家です。この舞台として設定されているグリニッジヴィレッジという場所は、芸術家たちがわんさか集まって暮らしているところらしいです。ここへつながる周辺の道が複雑に入り組んでいるため、そろってお金のない芸術家たちはもろもろ取り立てに来る者の目をごまかしやすいというのがその理由です。

この環境設定から、登場人物は皆ある程度社会から外れている者たちであることがわかると思います。

このアパートの三階にジョンジースーの女性画家2人組がアトリエ兼自宅として部屋を構えています。

明記はされていませんが、この2人はおそらく恋人同士だと思われます。

「何でもいいから心残りになってくれるようなものはないのかな」

「ああ、そう言えば-いつかはナポリ湾の絵を描きたいと」

「絵を?-つまらん。もうちょっと気になってならないような-たとえば、男とか」

「男?」スーは口琴を加えて弾いたような声を出した。「男なんてものは-あ、いえ、先生、そういうことはありません」

このスーと医者とのやりとりだけで、売れない芸術家であり加えて同性愛者でもある2人が二重の意味で世間一般の理解を獲得しづらい立場であることがあらかじめ匂わされます。

医者と書いたついでですが、この物語はジョンジーが肺炎(当時は難病)にかかって命の危険にあるという前提からはじまります。ジョンジーはもう自分の死を確信し、諦めている様子です。

そしてこの世間一般の代表たる医者は為すすべなく「助かる見込みは十に一つ」で「本人が生きようとすればそんな見込みもあるという話だ」と言うことしかできない無力な存在です。なぜなら世間一般の代表=コロニー外の人物の代表ですから、この外れ者である芸術家たちを心から理解してあげられないこの医者がジョンジーを生きたいという気持ちに変えてあげられるわけがありません。

そこで登場するもう1人のキャラクターが同じアパートの下の階で暮らす売れない老画家のベアマンです。

この男はスーとジョンジー以上の世間の外れ者で、口を開けば「いつか傑作を描く」と豪語しているもののろくに筆もとらず酒ばかり飲んでいるような人物です。しかしこのダメ親父ベアマンこそ主人公(ヒーロー)なのです。

 

先ほども書きましたがジョンジーは肺炎を患っているため、もう一日中ベッドの上で生活するような状態にあります。彼女はそのベッドから窓の外の景色を見つめます。見えるのは単なるレンガの壁ですが、そこには蔦(つた)が張り付き、蔦には何枚もの葉っぱが付いています。

ジョンジーはその葉っぱの枚数を数え続けていて、今も絶えずどんどん落ちて減っていってると言います。

「最後の一枚が落ちたら、あたしも終わりね。」

「ほら、また一枚。スープも要らない。あと四枚だけね。暗くなる前に最後の一枚まで行ってくれないかしら。それを見て、あたしも行くわ」

「最後の一枚が落ちるのを見届けたい。もう待ってるのもいやだわ。考えるのもいや。何もかもうっちゃらかして、くたびれた葉っぱみたいに、ひらひら落ちて行きたい」

ジョンジーはいつの間にか落ちていく葉っぱに自分の命を重ね合わせ、カウントダウンするようになっていたのです。

もちろん葉が全て落ちることとジョンジーが死んでしまうことはなんの関係もありません。スーもそう言いますが、一方でどこか不安な気持ちにもなります。なぜならここで問題なのはそう思い込んでしまっているジョンジーの精神状態だからです。

スーはそんな考えからジョンジーを引き離そうと、自分の絵の話をしたり寝かせようとしたりします。ここで先ほどの無力な医者とは少し変わり、精一杯ジョンジーに「生きられないと考えることを忘れさせ」ようとするスーのあり方が見て取れます。それでもまだ「生きるんだと思わせる」まではできません。

 

一方、スーからその話を聞いたベアマンは憤ります。

「何だあ?葉っぱが落っこちるから死ぬ?そんな阿呆たれが世の中にいてたまるか」

ここで読者は、別にそんなに怒んなくてもいいじゃん…と思うわけです。それもヘンリーの巧さです。

 

そうこうしているうちに、よりにもよって雪混じりの雨が降ってきます。ジョンジーは眠り、スーも窓にシェードをかけて景色を覆い隠して眠りにつきます。

スーはあくまで、「見せないようにすること」に固執し、労力を使うにとどまるわけです。

 

そして翌朝になり、ジョンジーに言われるがままスーがしぶしぶシェードを上げると、まだ最後の一枚だけがしぶとく残っているのです。意外だと驚くジョンジー。その後、何時間経ってもその一枚は茎にしがみつき落ちません。北風が吹いても、雨が窓を叩いても変わらずそこにあります。

ついにジョンジーが根負けし、ようやく生きることに目を向けます。

「あたし、悪い子だったのね」ジョンジーは言った。「心がねじ曲がってた。そうと思い知らせるために、あの葉っぱが残ることになったんだわ。死にたいなんて考えるのは罪なことね。あの、スープ、少しもらえるかしら」

食べることは生きること。スープを飲もうとするところに大きな心境の変化を感じますね。さらにジョンジーは「いつかはナポリ湾の絵を描きたい」と未来の話をするようにまでなります。

 

こうして、 この後病状の峠を越えて、ジョンジーは心身ともに回復します。しかし、ほぼ同時に、老画家のベアマンが肺炎で亡くなったことを知ります。

というのも実は、あのいつまで経っても落ちなかった最後の葉っぱは、あの日ベアマンが夜な夜な冷たい雨風の中、一人ではしごに登り、レンガの壁に描いた本物そっくりの絵だったのでした。その無理がたたり、彼は肺炎を患ったのです。

ジョンジーを救ったのはベアマンの描き上げた最初で最後の傑作だったというセリフでこの作品は締めくくられます。

 

 

…ニクいですね、ベアマン。

どうでしょう。ベアマンという男は人生を全うしたでしょうか。

そもそも動機は何だったのか。

絶望している若い女の子たちを救いたいという親切心?

最後に傑作を見せてやろうという絵描きとしての意地?

あるいはその両方?

一つ間違いなく言えるのは、彼は少なくとも画家としての人生は全うしたということだと思います。というのも、ベアマンは無意識のうちにスーが捨ててしまっていた「見せる」という選択肢をとることができたわけです。画家というのは作品を誰かに見てもらってなんぼです。「傑作」という言葉にしても誰に、いつ、どのような形で見てもらえたかという状況も含めて完成する概念とも言えるわけですし。

口ではぶっきらぼうなことを言いつつも、自分の絵を見せることでジョンジーの気持ちを変えてやろうとしたベアマンの心意気の勝ちなのです。完璧な勝ち逃げです。この点で、恋人であるスーは画家としても救い手としてもベアマンに引けをとってしまったわけで、未熟さ、若さが出たかなと思います。(献身という意味ではジョンジーにとってなくてはならない存在でしたし、未来を生き抜くパートナーでもあるわけですが)

もしかするとベアマンは最後の最後になって初めて、描くために描いたのではなく見せるために描いたのかもしれませんね。

単なる結末の意外性にとどまらず、ジョンジーとスー、そしてベアマンへの作者のニンマリと笑う顔が透けて見えるような温かな視点が感じられる名作なのではないでしょうか。なにより数ページでこれをやったことで非凡さと味わいが引き立っています。

 

ちなみにこの本の他の短編作品だと、僕は『金銭の神、恋の天使』『ユーモリストの告白』が特に好きでした。比べて読むのも楽しいですよ。

 

 

ところで。実は僕の彼女は絵画の勉強も少ししていまして、それもあって普段から絵画の力を信じている彼女がこの作品を好む理由もなんとなくわかる気がします。

僕は美術には明るくないのでいつも興味深く話を聞いているのですが、最近彼女にオススメされて気に入った絵があります。

ルネ・マグリット『光の帝国』です。

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昼と夜が同時に存在しているこの絵の、一枚でいろんな印象を与えてくれるところがすごく好きです。静謐さ、不穏さ、幻想、現実、冷たさ、温もり。なんといってもキレイですよね。マグリット展、次があれば連れて行ってもらいます!

 

そういえばこれも彼女から教えてもらったのですが、この作品の世界観を引用した映画があるのです。↓

 

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そうです。エクソシストです。

彼女も大好きなこのホラー映画。

ベッドで身体を大きく波打つそこそこ有名なくだりがあるのですが、そのモノマネは彼女の持ちネタです。テンションが上がると布団の上でつい取り憑かれてしまうようです。エキセントリックでしょう?僕は毎回間違いなく爆笑します。

 

 

では今回はこの辺で失礼します。

また次回お会いしましょう…(♫エクソシストのテーマ曲とともに♫)

 

 

 

 

 

 

 

 

華麗とピザ

こんばんは。3回目のです。

紹介が遅れましたが、僕は現在大学4年生です。4年生の9月ということで、しかめ面をしながらいそいそと卒業論文にいそしんだりいそしまなかったりしています。今はまだいそぐような時期ではないので、さほどいそがしくはありませんが。

ちょっといそいそ言い過ぎましたね。

さて、いそと言えば磯山さやかさんですが、磯山さんは茨城県出身。

そうです。僕の彼女茨城県出身なのです。当の彼女はそのことに少々コンプレックスがあるようですが。

自分はパリジェンヌであると周りにうそぶいていることから分かるように、華やかだったり、煌びやかだったり、洗練された世界に憧れが強いようなのです。

 

そんな悩みに対していつも同情を口にしつつも、実は僕は彼女が茨城出身で良かったなとも思っています。

彼女には人一倍"伸びやかな"ところがあります。それは単なる明るさとも、大らかさとも少し違います。素直さと頑固さと温かさがちょうど同じ分量ずつ混ざったようなものです。

おや?頑固は伸びやかと矛盾するんじゃないかと思われるかもしれませんが、矛盾どころかむしろ必要不可欠だと僕は思います。素直さと温かさと同居しているというのがポイントです。

 

たとえば「器が大きい」という表現があります。一般的には「物事を受け入れる幅が広いこと」といった意味だと言えます。彼女の持つ伸びやかさはこれに限りなく近いです。

ほら!頑固とは正反対じゃないか!と言われそうですが、確かにお門違いの頑固である場合はその通りです。しかし、本来は正反対ではなく裏返しではないかと思うのです。

 

想像してみてください。

言われたこと全てに問答無用で同意するイエスマンを。

他人の主張に対して一切自分の意見をぶつけない似非平和主義者を。

相手と場所と空気でころころと自分を変えてしまう八方美人なあの人を。

雨が降ろうが槍が降ろうが受け入れてしまうのは器ではなくもはや水です。水に理性はありません。頼りにならない場合には「器が大きい」という表現は当てはまりません。

 

僕の言っている頑固というのはその器の固さではなく強度のことです。彼女の持つ器は鋼じゃなくてゴム製なのかもしれません。

頑固というのはつまり「自分が納得するまでは姿勢を変えない」ことです。それはどこかで信頼感にも繋がっていきますよね。

自分の考えに頑固でなくても、より"好ましい方に"頑固であればいいのです。

そして、納得し共感することさえ上手くいけばこれ以上に心強い味方もいません。

現に彼女も、他の意見が好ましいと判断するやいなや持ち前の素直さでその意見を大切に扱うことができます。一方で正しい答えがないような問題には自分なりにこれだ!と思える回答を用意しておくこともできます。

彼女はきちんとした判断基準のある頑固さを持っていて、かつそれをミリ単位で伸縮させられるゆとりも持っているのです。

 

要するに、彼女は自分の好きな考えや大事な人を一番良いように保つことに対して頑固なわけです。

まぁ確たる自分を持っていなければどのみち他人に対して真摯でいられませんしね。ちょっとした意地の悪さも負けん気も虚栄心もあるのは当たり前。それらをうまく出し引きしてみせてこその人格者だと思います。

 

いろいろと言いましたが、個人の性質や考え方に、どれほど自らのバックグラウンドが影響しているかは正直わかりません。それでも彼女の伸びやかさは茨城で育まれました。遠い世界への憧れが彼女の人柄を豊かにしたもののひとつであるような気がするのです。

だって、素直さも頑固さも温かさも、劣等感のない人間には備わらないでしょう。

 

 

さて、前置きが長くなりましたが無関係ではありません。今回彼女が貸してくれたのは、そんな頑固さ遠い憧れがキーワードにもなる一冊です。

 

 

『グレート・ギャッツビー』フィッツジェラルド

 

 

 

今回は村上春樹訳の方ではなく光文社の新訳古典文庫でした。結論から言います。ド級の名作です。誰かがこれを世界一だと宣言しても納得するレベルです。

これまで読んでなかったことを後悔するとともに、若者が終わりつつある今に間に合って良かったと思いました。

 

初回、2回目とフランス小説でしたが、3回目にして初のアメリカ小説です。

彼女の分析によると、僕はアメリカ文学に強く惹きつけられる傾向があるみたいです。(自覚なし。アメリカ映画好きとも関係あるかも)

 

まず。この作品を傑作にしているほとんどすべての要因はタイトルにもあるように、ジェイ・ギャッツビーという男のキャラクター設計にあると言っていいと思います。彼にどれほど惹きつけられるかによって、作品そのものへの没入感が決まります。

桁違いの金持ちであり、パーティー狂であり、ジェントルマンであり、ミステリアスであり、無垢であり、ロマンチストであり、愚か者。多くの側面が入り乱れて複雑ですが、読み終えた時、たったひとつの真っ直ぐな生き様だけがかすかな残り香となり漂うのを感じるだろうと思います。

 

テクニックの面で言えば、ギャッツビーをこれほど奥行きのある人物に仕立てているのがニック・キャラウェイの存在です。彼は語り手として読者と同じ客観的視点を持ちながらギャッツビーと関わっていきますが、時にその役割を放棄し自ら彼の運命の渦に身を投じ、翻弄されてゆく役割も担っています。

読者とギャッツビーの間に物静かで理性的で最も優しいニックを一枚かませることによって、ギャッツビーの人格や心の動き、物語の紆余曲折をより効果的に膨らませることに成功しています。

 

もう一人ある意味で物語のすべてを担わされた人物がデイジー・ブキャナンという女性です。ギャッツビーをこれほどまでに豊かなキャラクターにし、そのすべてを与えた張本人である一方で、彼のすべてを奪ってしまった張本人でもあります。

彼女に与えた性質と役割も見事でした。ここを間違えると作品全体が一気にぼやけかねませんでした。

ギャッツビーとニックが多面的で複雑とも言える人物として描かれているのに対して、このデイジーという女性は物語のすべてを握らされているキーパーソンにもかかわらず、ただ美しいだけのどこか軽薄な女性として存在しているのみなのです。

この物語の構造において、デイジーの担う役割に、複雑な人物設計などいらないということを作者フィッツジェラルドは分かっていたに違いありません。

ただ美しすぎた。そして少しだけ浅はかだった。皮肉にも、彼女はそれだけでギャッツビーの運命そのものとなったのです。

もちろん、これは物語の構造上の話であって、小説内でデイジーがただずっと突っ立ってたかというとそうではありません。デイジーは夫のトムが浮気していることにも感づいていますし、そのトムとの間に娘もいるので境遇的にもタイミング的にもギャッツビーとの出会い(再会)は器の大きくない彼女にとって抱えるには大きすぎるドラマだったのだと思います。

 

なによりも、このギャッツビーとデイジーの関係は他でもない作者スコット・フィッツジェラルドとその夫人をどうやら原型にしているようなので、この荒唐無稽とも言える直線的な愛情にどこか説得力と重みが感じられるのも納得です。

 

しかしまず構成の話だけしてしまえば、この他のキャラクターたちもまたややこしい事情に満ちた人生も、含みを持った人格も備えることなく、単純に物語上の役割を果たすだけの演者だと言えます。あとは物語がいつどのように動き出すかが焦点となりますが、狂っていく歯車に対して実はこの演者全員がある程度責任ときっかけを持っています。この構成はうまいなぁと思いました。「誰かのせい」にしてしまうとギャッツビーの生き様が途端に運命的なものではなくなってしまいます。

たこれらの要素だけで小説が名作になったのは、時代背景含め魅力的な世界観と文体の放つみずみずしさはもちろんですが、物語の中心にいるギャッツビーという男の求心力にあるのだと何度も言っておきます。

 

 

デイジーの親友、ジョーダン・ベイカー

デイジーの夫、トム・ブキャナン

そのトムの浮気相手、マートル・ウィルソン

そのマートルの夫、ジョージ・ウィルソン

唯一このジョージは最も単純で悲劇的な役割を持っています。自身の人生の顛末においても、物語への関わり方としてもです。

また同時に、小説全体の裏側に潜む象徴的な意味合いにおいてはギャッツビーらと相反するもの(貧困)としても上手く機能しています。

 

そして象徴の話として避けて通れないのが「灰の谷」です。ギャッツビーらの住むロングアイランドから遊び場であるマンハッタンへ向かう途中にある、廃棄物で溢れる汚れた場所です。この地理上の設定もウィットに富んでいて、前提としてアメリカという国を扱う作品の場合、南北、白黒、貧富など対立のテーマは必ずその根底に透けて見えます。この小説が書かれたのが(また作中の時代も)アメリカが経済的に目覚ましい発展を遂げていた1920年代だということを踏まえると一層多くの意味をもってきますね。

『グレート・ギャッツビー』もその例に漏れず、必然として物語はこの灰の谷で大きく動くことになるのです。ジョージとマートルの引き金夫婦もここで暮らしています。

さらによりにもよって、この場所に、すべてを見下ろす神の目なる看板があるというのも露骨に示唆的です。

(↓こちらは74年版の映画から)

 

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この小説の場合、一度読んだ限りではそれほど宗教的な態度のもつ意味は大きく扱われていないように思いますが、神の視点というのは、あえてぶっきらぼうに言うととても"便利な"小道具になりえます。

映画やドラマなどで俯瞰ショット(真上から見下ろすような映像) が選択されている場合、まず8割は神などの超越的なものの視線の代弁として演出されていると言い切れます。

おそらくこの小説の場合は「運命」を代弁するものだろうと思いましたが、ギャッツビーとデイジーを二度引き裂いた当時のアメリカ「社会」の象徴ともとれます。これについてはさらなる考察のしがいがありそうです。

 

僕の好きな場面は、ニックの計らいによりギャッツビーとデイジーが再開するところと、その後ギャッツビーのシャツの山でデイジーが涙するところです。

いよいよデイジーに会える時。完璧超人に見えたギャッツビーがかなりかっこ悪く、情けなく、一人の普通の男の子になってしまいます。それがかえってデイジーへの大きすぎる愛を感じさせます。

 ギャッツビーは、どたばたとキッチンへついてきて、ドアを閉めると、声をひそめて「ああ、何たることだ」と情けない言い方をした。

「どうしたんです?」

「まずいことをした」大きく首を振っている。「まずい、まずい」

「だいぶ上がってたみたいですね。それだけのことでしょう」この次に私が言ったことは、結果としてよかったのだろう。「デイジーもそのようでした」

「デイジーも?」まさかという口ぶりだ。

 そりゃ浮き足立ちますよね。だってこの瞬間のためだけに彼は巨万の富を築き、家を建て、毎晩大枚叩いてパーティーを開催してきたわけですから。

逆に言えばここが彼のただひとつの脆さであり、この脆さゆえに招いたのがあの結末だったと。

 

 ギャッツビーは無造作にシャツを手にすると、次々に放り出していった。つややかなリネン、厚手のシルク、みごとなフランネルが、はらはらと広がって色あざやかにテーブル上を埋めつくすー

ーすると、引きつった声を洩らしたデイジーが、いきなりシャツの山に突っ伏して猛烈に泣いた。

「だってシャツがこんなにきれいなんだもの」

  ここで山のように積み重なった高級なシャツはどれも、デイジーが恋をしていた頃のギャッツビーには到底着られなかったものです。ギャッツビーがデイジーに会うために築き上げてきた富と地位と名誉の山であり、二人の間に横たわる長すぎた年月でもあります。その無邪気なまでのきれいさは、どこか虚しさを感じさせるのです。

 

以上述べてきたように『グレート・ギャッツビー』はアメリカを代表する傑作小説なので、映画化もすでに5度されています。原題はいずれも“The Great Gatsby”です。

或る男の一生(1926年)
暗黒街の巨頭(1949年)
華麗なるギャツビー(1974年)
華麗なるギャツビー(2000年)
華麗なるギャツビー(2013年)

特筆すべきは74年版と13年版です。

 

74年版でギャッツビーを演じたのは私も大好きなロバート・レッドフォードです。明日に向って撃て!『スティング』で有名ですね。

デイジー役もまた名女優ミア・ファロー。こちらはローズマリーの赤ちゃんウディ・アレンの作品群でご存知の方も多いと思います。(そのウディとのいざこざについては触れません…)

脚本を書いたのが地獄の黙示録コッポラなのはあまり知られてないようです。

 

 

僕はやっぱりこの13年版がどうしても好きです。まずギャッツビーとディカプリオの相性の良さが100点満点。監督にバズ・ラーマンを使ったのもナイス采配です。ムーラン・ルージュや同じくレオ様(彼女はおそらく世界で唯一ディカ様と呼んでいる)主演の『ロミオ&ジュリエット』などにも共通した、豪華絢爛でドラマ性に富んだロマン主義的世界観が上手く活かされていました。

さらにさらに。デイジー役に抜擢されたのが僕の好きな顔面を持つキャリー・マリガンであったこともプラス。さきほど述べたデイジーのもつ軽薄さという点ではミア・ファローよりも"らしく"表現できていたと思います。

ちなみに、劇中ではメイクで右頬にホクロを付けていました。↓

 

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実は僕の彼女も似た位置にホクロがありまして、そのホクロのある白いほっぺが僕が一番好きなパーツなのです!ごちそうさまです!

 

かなり長くなってしまいました。

簡潔に。この本と引き合わせてくれた彼女にありったけの感謝を献上します。

 

そして最後に。この小説のカギを握る感情の1つでもあった嫉妬にまつわるエピソードがひとつ。

僕と彼女が彼女の住む部屋に宅配ピザを頼んだ時の話です。届くまでの時間、僕は用事を済ませに郵便局へ。彼女はシャワーを浴びることに。

予定より時間がかかってしまい慌てて帰ってくると、ちょうど玄関から動揺した様子でピザの配達員の方が出てきました。

ドアを開けると、裸にタオル一枚の彼女がピザを持っていました。僕が少し戻るのが遅れたために、彼女がシャワー途中で出て受け取ってくれていたのです。

僕は思い出しました。さっきの配達員の男性の鼻の下が伸びていたことを。

キィィィィィィィィィ!!

 

 愛情の火加減って調節が難しいですよね。ギャッツビーもそう思わない?

 

以上、ピザを焼いてもらったらヤキモチを焼くことになった話でした。

 

 

 

 ※今回は光文社版に合わせて、名前の表記をギャツビーではなくギャッツビーで統一しました。

 

壁と口づけ

どうも、です。2回目の更新です。

今日もまた、親愛なる彼女から借りた思い出深い一冊を紹介したいと思います。

 

と、その前に。

前回僕は年間300作品以上は映画を観ていると言いました。当然それなりに詳しい自負はありますし、たくさん観ては人一倍多くの考えを巡らせきただろうとは思います。

ではなぜ、そんな大好きな映画ではなくて、わざわざ自分の彼女から借りた本だけを扱って感想を書こうとするのか。

答えは簡単です。

のろけたいからです。見返してはへへっ///てなりたいからです。そのへへっ///を誰かに見せつけることで幸福が倍になります。

 

もうひとつ。僕は気づいたのです。

他人がオススメしてくれたものにこそ自分が宿っているということにです。

これは彼女の良いところなのですが、「私が好きな〇〇」ではなく、「あなたもきっと好きな〇〇」をいつも教えてくれるのです。

他人の目を通して自分が立体的になる。だから発見が多い。出会いが多い。これは真理です。

 

そのことを体験させてもらって以来、僕も他人に何かをオススメする時はその視点を欠かさないように心がけています。

そしてさらに、教えた方もまた相手のことを少し深く理解できたり、共感できたり、別の一面に触れたりできるという…いいことづくしなわけです。

 

そういうこともあって、僕と彼女はいつも話題に事欠きません。1年経った今でも毎晩長々と電話をしていろんな話をしています。

彼女は僕に小説とグルメとファッションと旅行の話をし、僕は彼女に映画と漫画とテレビドラマとスポーツの話をします。

月日が経つにつれて、段々とその"担当分野"の境界線が消えてきているのは嬉しい。それはひとえに彼女の文化への姿勢のおかげなのです。

 

ところで。その彼女は相変わらず夜中に牛丼を食べる悦びから抜け出せないでいます。

彼女曰く、口が吉野家の日とすき家の日があるそうです。

「美味しさの質が違うの」彼女は言います。

吉野家はどこか上品な味とその低価格で日本のファストフードの質の高さを感じさせてくれるんだと。一方で、すき家はジャンキーな味付けかつバラエティに秀で、牛丼を食べることそのもののありがたみを感じさせてくれるんだと。

(たしかに彼女が海外旅行から帰ってきてまず最初に選んだのは吉野家でした)

 

 

さて話が行方をくらましましたが、本題は夜食から抜け出せない女の話ではなく、壁を抜けられる男の話です。

 

『壁抜け男』マルセル・エイメ

 

 

壁抜け男 (角川文庫)

壁抜け男 (角川文庫)

 

 

今回はこちらの一冊。

これを借りた時、正直タイトルのダサさに息を呑みました。キャスパーかな?と思いました。 

 ところがどっこい。これがなかなか考え深い切ないお話でした。

 

この一冊は表題作と合わせて5つの作品から成る短編集です。

  • 「壁抜け男」

→壁をすり抜けられる男の話

  • 「変身」

→断首刑を宣告された男がキリスト教と出会い赤ん坊になってしまう話

  • 「サビーヌたち」

→自分を増やす能力を持つ女の話

  • 「死んでいる時間」

→生きている日と死んでいる日を交互に過ごす男の話

  • 「七里のブーツ」

→ひと跳びで七里を飛び越えられるブーツをめぐる子供たちの話

 

これだけ見るとまた奇天烈で幻想的な作風かと感じると思います。が、これらの短編はここに書いてある点以外はいたって簡素で論理的なお話で、そこが前回のボリス・ヴィアンとの違いです。

そして、5人の主人公たちはみな社会的には弱者と言えるということも共通しています。

具体的には下級役人や貧乏人、頭の弱い人などですが"マイノリティ"とは少し違う。そこがエイメの上手なところだったなと個人的には思います。

これら各作品の持つ結末の風刺的感覚や豊かな人間味は、マイノリティな人物を中心にしてしまうと大衆性と両立できません。

なぜなら、読者の同情ではなく共感が必要不可欠だからです。

一から想像するしかないような人物が不思議な運命を辿ることと、どこか自分も見知った景色を見ている人物が不思議な運命を辿ることは全く別の読後感を生むと思うのです。

 

壁抜け男の物語で言うと、主人公であるデュティユルはごくごく平凡で、人並みに見栄も復讐欲もいたずら心も性欲も持っています。

言ってしまえば、そんな普通の男が自らの過失で自らを葬ることになるだけなのですが、どうしてか切なさで胸がいっぱいになります。

それはたぶん、普通の男だったからです。お金持ちでもなく天才的頭脳の持ち主でもなくただ壁をすり抜けられるだけの平凡な男だから。

現にあれほど能力を乱用して法を犯していたのに、皮肉な結末は、それをさも罰するようなタイミングでは訪れませんでした。

ではそれはいつだったか。恋に溺れた時だったのです。

「普通の男が普通に恋に落ちただけなのに、どうして運命はこうも悲しい」と読者は感じます。この能力がなければ…。でもその能力のおかげで最後に恋ができたのか…。この矛盾が切なさであり、風刺的なのです。

 

そんな僕はというと、泣くまではしませんでしたが下唇を噛み締めながらページを閉じました。彼女のセンスに感服し、作品の極上の読後感にやられました。

短編ということもあって、どれも結びが効いていてたまりません。

壁抜け男も例に漏れず最高です。

 

人通りのたえた冬の夜、ときおり、画家のジャン・ポールがギターをかかえてノルヴァン通りにふらりとやってきて、塀のなかに閉じ込められている哀れな男をなぐさめようと、一曲歌うことがある。

すると、ギターの調べが、寒さにこごえた画家の指をはなれて、月の光のしずくのように、石の奥まで染みこんでいくのだ。

 

月、夜の匂い、ギターの音色、寒さの肌感覚。五感を響かせる簡潔で見事な描写。

加えて、最後の最後になってこうして目線を他者にふることで、主人公の皮肉な境遇とやるせなさが浮き彫りになるという。

 

ちなみにこの作品。みんな大好き劇団四季がミュージカルとして上演していたそうです。僕は知るのが一歩遅く行けませんでした…。しっかりと付き合う前に観に行っていた彼女の絶賛をただ耳にすることしかできません。再演、待っています。

 

 

そういえば。

ちょうどこの小説を借りた頃に僕は彼女に告白し付き合い始めたのでした。

それから最初のキスまでに苦労したのがいい思い出です。付き合って一ヶ月ほど経過し、絶対今日はする!と意気込んでもう別れ際。

帰ろうとして振り返った瞬間に、勇気を振り絞りました。

結果、彼女が驚いて目を瞑るほど無理な形ですることになりました。

しかも。慌てすぎて、した直後に「こ、これでよく眠れる」と言ってしまいました。彼女は困惑し、後日爆笑してました。

…思い出すだけでこめかみがピリッとします。まずは勇気を褒めて欲しい。

とにかく、なんとか腰抜け男にはならずに済みましたとさ。

 

以上、第2回でした!

 

 

泡と雨

はじめまして。

 

突然ですが、彼女がお付き合いしはじめてからもう間もなく一年が経ちます。

そしてこの一年間、僕は彼女からたくさんの本を借りました。今では僕よりも僕の好みを把握しています。

 

どんな本を借りて、どんなことを考えたか。どんな風に2人の日々を豊かにしてくれたか。

忘れていくのは嫌なので、こっそりと、ここに少しずつ書き残していこうと思います。

 

 

思えば始まりはこの一冊でした。
まだ付き合う少し前、お互い◯◯さん、◯◯くんと呼び合ってた頃です。(彼女はひとつ先輩です)

とにかく話すきっかけが欲しかった僕がオススメを聞くと、彼女が貸してくれました。

 

ボリス・ヴィアン『日々の泡』
独特のファンタジーテイストとシュルレアリスム的感覚を持つフランスの青春恋愛小説です。

 

 

日々の泡 (新潮文庫)

日々の泡 (新潮文庫)

 

 

ボリス・ヴィアンとか好き?」という一言ともに出てきたこの難しそうなフランス小説に、内心ビクついたものの、表面上はきっちり「お、センスええやん」という余裕たっぷりの顔が出来ていたように思います。


僕の彼女は自称パリジェンヌ(※茨城生まれ茨城育ち)ですが、今考えるとこの時からその症状が現れていたのだと腑に落ちました。

 

今にも恋愛感情が芽を出そうかという立春前夜のタイミングで、好意的な(だったはず)男の子に貸す小説としてこの愛し合う男女が死別する作品を選んだことがなんの前フリにもなっていないことを願うばかりです。

 

20世紀で最も悲痛な恋愛小説と評されるというこの作品。

 

主人公はコラン。彼が愛するクロエ

コランの親友はシック。その恋人のアリーズ

コランの料理人ニコラ。その恋人のイジス

 

差はあれど、全員変わり者。

そして結論から言えば、誰も幸せにはなれません。

 

お金には困っておらず、とにかく労働を嫌うコラン。彼の周りには美しいものしかありません。

例えば世にも奇妙なカクテルピアノという楽器。

聴こえるデューク・エリントンの音楽。

その曲の名を持った美しいクロエ。

なによりそのクロエと過ごす毎日。

 

僕はあまりに自由気ままなコランに自分をありのまま重ねることはできませんでしたが、クロエは頭の中で彼女の顔になっていました。それだけで楽しい場面ではページをめくる手がいきいきと、反対に悲しい場面では鈍くなってくるのは不思議です。

付き合う前から1人で盛り上がっていたのが分かりますね…。

 

やがてコランと結婚したクロエの肺に睡蓮の花がつきます。その睡蓮は命を蝕む花なのです。

新婚旅行の終わり、恋が日常へと変わろうとしている時。

非日常的な美しいものしか必要ない。そんなコランの考え方が皮肉にも現実となって反映されてしまいます。

 

助けるためには部屋中を花でいっぱいにしないといけない。水は一日にスプーン2杯しか飲ませちゃいけない。 

治療のために減っていくお金。

プライドなど捨てて働くコラン。

彼の周りから消えていく美しい物の数々。 

止まらない僕のため息。

 

 

一方、お金に困っているにもかかわらず、労働を嫌うシック。

にもかかわらず、パルトルなる作家にまつわるあらゆるものを収集することをやめられない。

そんなシックを愛するアリーズは、彼を救うために直接パルトルに会いにいきます…。

そしてさらに勢いを増す僕のため息。

 

 

この小説のシビれるポイントは、死別に向かう日々の虚しさにきちんとページを割いているところかなぁと思います。

物語の幸福度が上がっていく道のり以上に、そこから下降していく疾走感に重きを置いて、あっという間の喪失をありのままに見せつけてくれます。

 

そう。そのあっという間の喪失がよりによって美しいのです。

 

生命の息吹としての、経済的なものとしての、彼らの描いた未来としての…泡はすべてはじけてしまう。

目の前に、昨日までと違ってしまったこの空間だけが残った。

その瞬間に味わう身を切るような空気の冷たさです。

しかし、その温度は同時に、たくさんの泡で満たされていた頃の暖かさでもあるという。

誰もが、はじけてしまってはじめて、漂う泡の美しさに気がつきます。というよりもきっと、はじけてしまってようやく本当に美しいものになるのでしょう。

 

ラストの一幕。

猫との会話中で、ずっと二人を見守ってきたハツカネズミが口にした台詞。クロエを亡くしたコランのことをこう表現します。

 

「つまり、その人は不幸なんだろう?」

「不幸なんかじゃないわ」ハツカネズミは答えた。

「心が痛いのよ。それが私には耐えられないの。・・・

 

コランは心が痛いだけで不幸ではないのです。

現にこの話を見届けた読者は皆、彼らの日々は美しかったと思っているはずです。

 

それでも…美しかったものとして完成しなくてもいいから、僕と彼女の毎日は無くならないでほしいです。

 

読み終えて。

この小説の、唯一無二のファンタジックな世界観と暴力的なまでの現実観の混在具合は、彼女その人自身に似ていると思いました。

例えば、お菓子の家に住むことを夢見つつも、いざ作るとなればその予算や部屋の設計には一切妥協しないというような矛盾した魅力が彼女にも備わっています。

魅力ある女性というのはきっと幻惑的で、同時にどこか現実的なのかもしれませんね…。

 

ちなみにこの本、『ムード・インディゴ〜うたかたの日々〜』というフランス映画の原作でもあります。

 

 

 

年300作品以上映画を観るシネフィルの僕は、実は以前からこの映画については知っていました。そして好きな映画でした。

なので原作がこれと知った時、好みが似ていてやたらと嬉しかったのを覚えています。

 

そんなこんなで、この作品の監督ミシェル・ゴンドリーは2人のお気に入りになっていきます。こうやってお互いの好き嫌いの地図を重ねたり、比べたり、つなげたりしていくのが何より楽しいんですよね。

ちなみにカップル成立後の初デートも同監督の『グッバイ・サマー』でした。

こちらも負けず劣らずオススメですよ!

 

 

グッバイ、サマー [DVD]

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その日お昼ご飯にケーキ(!)をもしゃもしゃ頬張っている彼女を見て「毎日誕生日みたいに過ごせる人」と表現したくなりました。

※頭の中がおめでたい人という意味ではありませんよ!ありませんからね!

 


そのデートの帰り道は雨が降りました。

傘は一本だけでした。

家まで送った別れ際、買ったばかりのジャケットの左肩は、男の意地でびしょ濡れになっていましたとさ。


以上、アワ〜い日々の思い出でした。